Tuesday, January 29, 2013

One Direction 第6回 Artisan d'Angkor 丸山奉子


One Direction〜自分を信じて進む者たち〜
ー第6回ー 丸山奉子さん



【経歴】
丸山奉子(まるやま ほうこ)
1983年7月15日生まれ。静岡県出身。バンタン映画映像学院を2003年に卒業後、地元に戻りアルバイトを始める。1年後の21歳の時、アジアを巡る旅に出てカンボジアに住みたいと思い、現地のホテルにて7ヶ月働く。21歳の旅と時に出会ったカンボジアの男性と23歳で結婚し、6年間日本で生活をする。20121月からカンボジアで生活をし始めて、現在はArtisan d’Angkorにて働く。3児の母でもある。
Artisan d’AngkorHPはこちら:http://www.artisansdangkor.com/


■自分は何人?

齊藤:今回はOne Direction6回目となります。今回は、特に子育てという観点からお話が聞ければと考えていますので、どうぞ宜しくお願いします。

丸山:宜しくお願いします。

齊藤:早速ですが、カンボジアに初めて来たのはいつなのでしょうか?

丸山19歳の時ですね。当時は、バンタン映画映像学院という専門学校に通っていて、その時の友達とツアーでカンボジアに来ました。

齊藤:目的はなんだったのですか?

丸山:遺跡巡りですね(笑)。遺跡が好きだったので、遺跡好きの友達と共に来ました。また、『地雷を踏んだらサヨウナラ』という映画があるのですが、その元になった人物である一ノ瀬泰造さん(※)のお墓に行きたくて来ました。
(※)一ノ瀬泰造(いちのせ たいぞう):1947年生まれの報道写真家。カンボジア内戦を主に取材、共産主義勢力クメール・ルージュの支配下にあったアンコールワット遺跡への単独での一番乗りを目指していたが、アンコールワットへの潜入後消息を絶つ。1982年に遺体が発見され、1973年にクメール・ルージュに捕らえられ、処刑されていたことが判明した。
(出店:wikipedia: http://bit.ly/VmkWC8

齊藤19歳で遺跡が好きというのもスゴイですね(笑)。私は、まだ遺跡の良さが分からなくて・・・。

丸山:まぁ、好みがありますからね。

齊藤:確かにそうですね(笑)。一ノ瀬泰造さんは、いつ知ったのですか?

丸山:高校の時ですね。家でたまたま『地雷を踏んだらサヨウナラ』を鑑賞して、その時知りました。

一ノ瀬泰造さんのお墓に向かう時、トゥクトゥクの中から田舎の田園風景を見たんです。それに、すごく感動してしまって!遺跡よりもカンボジアの田舎の風景に惹かれましたね(笑)。その時に、カンボジアに住んでみたいなと感じました。

齊藤:なるほど。その時は、1週間ほどで帰国されたわけですよね?

丸山:そうですね。

齊藤:次にカンボジアに来たのはいつだったのでしょうか?

丸山21歳の時ですね。その時は、カンボジアだけでなく色々な国を回りました。韓国や中国、タイ、ラオス、ベトナム、そしてカンボジアを卒業して1年かけて貯めたお金で回りました。

齊藤:結構回られたんですね!旅に行こうと思ったきっかけは何だったのですか?

丸山:んー、海外についての色々な映画や本を読んだということがきっかけになっているとも言えるのですが、それ以上に「広い世界を見てみたい」と思ったからという方が大きかった気がします。

実は、私の父は韓国人なんですね。母親は日本人ですが。父親が韓国人だという事実は、小学校の高学年くらいまで聞かされていなかったんです。初めてその事を母から聞いたとき、「他人には黙っていなさい」と同時に言われました。

その時はあまり深く考えなかったのですが、段々大きくなるにつれて、その理由が何となく理解できるようになってきました。それで、自分って何人なんだろうって思うようになり、多くの国に行って様々な人に会ってみたいと感じて、旅に出ることを決意しました。

齊藤:旅に出たいと感じたのは、いつごろなんでしょうか?

丸山:専門学校時代ですね。

齊藤:専門学校時代に、「自分って何人なんだろう」ということを考える機会があったということですか?

丸山:そうですね。専門学校の時、同じクラスの中に母親が韓国人で、父親が日本人という友達がいたんです。でもその友人は、親が日本人でないという事実を、何の躊躇もなく周りに話すわけです。私はそういう事を隠そうとしていたので、疑問に思って、そういう事を公にして友人関係が悪くなるのが怖くないかと聞いてみたんですね。

そしたら、「そんな事で離れていく友人は、必要ないよ」と言うわけです。その言葉が非常にカッコよく感じられたんですよね。

在日韓国人という人たちは日本に大勢いるわけですが、実際に目の前にして会ったのはその時が初めてでした。その初めて会う人が、そういう考え方をして生きているということを知り、嬉しかったのを覚えています。そういうことがあり、自分って何かを知りたくなりましたね。


浅野忠信主演の『地雷を踏んだらサヨウナラ』。帰国したら鑑賞したい映画No.1です!


■人間、悩んでなんぼ

齊藤:旅に出てどうでしたか?

丸山:〇〇人とかって、本当にどうでもいいなぁと感じましたね。それぞれの考え方があって、それでいいんだということを思いました。

同じ国の中でも違う考え方があるわけですよね。だから何人かを見るよりも、その人自身を見ることの方が大切だと感じました。それで、「自分が何人か」ということで悩んでいる私が小さいなと感じ、自然とその問が解決していきました。

齊藤:今、お子さんがいらっしゃいますよね?

丸山:はい。3人いますね。

齊藤:丸山さん自身は、カンボジアの方をご結婚されて子どもを育てていらっしゃいます。子どもさんも日本・韓国・カンボジアの血が混ざっているわけですから、いずれ大きくなったときに丸山さん自身が悩まれた壁にぶつかると思うんですね。それについては、親として何か考えがありますか?

丸山:そうですね。私自身が乗り越えられた壁なので、私の子ども達も絶対乗り越えられると信じています。本当に悩んだ時には、旅に出てみて欲しいなと思いますね。それで自身の答えを見つけてもらえればと。

齊藤:日本人としてのアイデンティティが身につくまでは、日本で育てた方が良い、と世間ではよく言われています。それについてはどう思われますか?

丸山どこで暮らすかというのはあまり関係ないと思います。何を悩むべきか、何が幸せかというのは、親ではなくその人自身が決めることだと信じています。したがって、どんなに親が考えても意味がないかなと。

齊藤:分かります!

私は純群馬県人ですが、今から小さい頃にタイムスリップできるならば、絶対に海外で暮らしたいと思います。そっちの方が英語の発音や耳の慣れ方が全然違いますからね。何が言いたいかといいますと、結局人は悩む生き物なんですよね。悩まない方が異常なわけです。なので、大切なのはそこからどういう解答を導きだすかだと思います。

丸山:まさにそうだと思います。親の役目は、子どもが悩んだ時に一緒に悩んであげるということだと思います。しかし、それは決して答えを教えてあげるということではない。答えは子ども自身が出すべきで、親は出せるような環境づくりをすることが大切なのだと考えていますね。

齊藤:なるほど。今お子さんは、何歳ですか?

丸山4歳の男の子と、2歳の双子の男の子がいますね。5歳の息子は、インターナショナルの幼稚園に通っています。もうすぐ小学校なのですが、小学校は半日をインターナショナル、半日を公立というように通ってもらおうと考えています。

齊藤:そうなんですね!そのような進路を考えた理由はあるんでしょうか?

丸山:子どもにはクメール語は喋れるようになって欲しいんですよね(笑)。もっといえば、カンボジア人と普通に接することができるようにして欲しい。もちろん大きくなって自分で判断できるようになったら、子どもに進路は任せようと思います。






■出会って1年で結婚

齊藤:ご主人との馴れ初めを聞きたいのですが・・・(笑)。

丸山:はい(笑)。

齊藤:初めて出会われたのは、いつ頃なんでしょうか?

丸山:出会ったのは、旅をしている時ですね。ゲストハウスに宿泊していたのですが、そこのオーナーの親戚で、ゲストハウスで働いていたんです。ただ、その時は簡単な会話程度で、ご飯を食べに行くという仲ではありませんでした。

旅を終えて日本に帰国した後、シェムリアップで仕事を探すために再度カンボジアを訪れたんですね。その時に同じゲストハウスに宿泊して、仲良くなりご飯を食べに行ったりするようになりました。

齊藤:お付き合いは、カンボジアで職を探しに来たときに始まったということですね?

丸山:そうなりますね。

齊藤:日本では基本的に、「付き合ってください」という儀式が行われるわけですが、カンボジアではどうなんですか?

丸山:カンボジア同士は、周りからの影響で付き合っていると認識するみたいですね。二人で仲良くなっていくと、周りが「あの二人って・・・」と噂するようになり、結果的に付き合うみたいです。私のケースは日本と同じような形式でしたね(笑)。

齊藤:周りが騒ぎ立てる感じは、ちょっと実体験があるので分かる気がします(笑)。

丸山:(笑)。

齊藤 2005年に職を探しにこちらに来てから、2006年に結婚ですよね?スピード婚じゃないですか(笑)?

丸山:そうですね、早かったですね(笑)。

齊藤:決断できたのは、なんだったんですか?

丸山:んー、もともと私が、決断するのにあまり時間をかけない方なんですね。まずはやってみて、無理だったら止めればいいやと考えています。なので、当時好きでしたし、まぁいいかなと(笑)。あっ、もちろん今も好きですけどね(笑)。

齊藤:(笑)。仕事ならまだしも、結婚に対してもその考えを当てはめるのは、スゴイなと思いますよ(笑)。

丸山:そうかもしれませんね(笑)。

HALという専門学校のCMだったと思うんですけど、そのCMで「やりたい事をやらないで何やるの?」って言っていたんです。そのメッセージを今でも鮮明に覚えていて、自分もそうありたいなと思っています。人間いつか死ぬわけですから、やりたい事やった方がいいなと思いますけどね。

齊藤:なるほど。


■カンボジアの農村の良さ

齊藤:子育てをされていて大変なことはなんですか?

丸山3人も子どもがいるので疲れはするのですが、カンボジアでは家族との繋がりが強いので、何かあれば家族が助けてくれるんですね。今も(インタビュー中も)子どもは夫の実家に預けているのですが、やっぱり身内の方が自分も安心しますし、子どもにとっても良いですよね。

齊藤:家族が助けてくれるというのは、すばらしいですよね。私自身カンボジアで暮らしていて、人の繋がりの強さを非常に感じます。特に農村では家族はもちろん、村人たちが助けあって生活をしているというのを感じて、いいなぁと常に思います。

丸山さんが生活をされていて、カンボジアにおける人の繋がりの強さを感じた具体的なご経験を教えてください。

丸山:やはり特に田舎だからだと思うのですが、あるコミュニティに住んでいる人は、全員の顔を知っているんですよね。子どももしかりで、コミュニティの中の子ども皆が兄弟という感じです。だから、何処へ行っても心配しなくていいですし、子どもが悪いことすれば、自分の子どもじゃなくても怒ってくれるんですよね。

そういう意味で、カンボジアの農村での子育ては楽だなと思います。ただ都市に出ると、あまりお互い干渉できなくなって日本同様のことが起こっていますが・・・。

齊藤:となると、都市化が進んでいくといずれ日本と同じようになってしまうと思いますか?

丸山:そうですね。寂しい気もしますが、そうなってしまうのだと思います。

齊藤:文化や言語の違いで悩んだことはありますか?

丸山:んー、あまりないですね。自分で言語や文化が違い人と一緒にいると決めたわけですから、そこに対して悩むということはありません。自分で決めたことだから、仕方ないというか当たり前だと考えています。

齊藤:お子さんが育っていく上で、これだけは守ってほしい!というような要素はありますか?

丸山:「楽しいかどうか」だと思います。将来、どんな仕事に就いても辛いことや大変なことは絶対にあります。でも、どうせ辛いなら楽しいと思う仕事の中で感じる方がいいと思いませんか?

齊藤:確かにそうですね。




■好きなことを探して欲しい

齊藤:今後のカンボジアはどうなると思いますか?

丸山:「上の人たち」が何もしない限り、格差がどんどん広がっていくと思いますね。どこまで「上」かというは、難しいですが・・・。

齊藤:そういう現状に対して、丸山さん自身が何かしたいというのはありますか?

丸山:私、文章を書くのが好きなんですよね。今、クメール語を読み書きできようになりたいと思っていて、将来的にはクメール語でカンボジアについての本や文章を執筆できたらいいなと思います。内容は未定ですが、何かこの国に貢献できればいいなと感じます。

齊藤:今の若者に一言下さい!

丸山:自分の好きなことを見つけて欲しいと思います。その手段としての旅、特にバックパッカーをオススメします。色々な世界に触れ、色々な人に会って、自分が直感的に好きだというものを見つけて欲しいなと。

齊藤:それでは、最後に国際結婚をしたいと思っている方へ一言!

丸山:〇〇人とかは全くい関係ないと思います。結局、その人と合うかどうかなのだと思うんですよね。日本人と結婚しても、けんかや悩むことはあるので、それと国際結婚での言語や文化の違いからの悩みは一緒です。なので、自分が好きだと思うならば、その人と一緒にいればいいと思いますよ。

齊藤:ありがとうございました!!




—編集後記—
子育てについて聞くつもりが、時間の半分を丸山さんの価値観について質問してしまった。しかしそれは、私にとって非常に有益な経験談であった。丸山さんが経験されてきた「自分は何人だろうか?」という悩みは、今私が考えていたことに合致したからだ。

カンボジアに来て早5ヶ月、一緒に働いている同僚に対して、「カンボジア人だから・・・」という感情を抱くことは無くなった。同じ職場で過ごす仲間としてしか認識しなくなったのである。もちろん、日本人と比べればスキルが劣るところは必ずあり、その結果時間を多くとってしまう場合は大いにある。しかし、その事を考慮に入れたプランニングや、得手不得手を理解した上でタスクをお願いすればなんて事はない。

そんな自分でも「〇〇人」という括りで物事を語ることが無いといえば、嘘になる。私という人間を区別するとき、そのカテゴリーは様々なレベルで分けられる。家族、町、市、中学校、県、国、アジア、そして地球など、自分を区別するカテゴリーは、枚挙に暇がない。そこから、自分が生活している中で一番重要なもの(もっと言えば、私が何か遭ったときに縋るもの)は何かと聞かれると、「国」と答えてしまうだろう。

私はここに答えを求めていない。「〇〇人」という境界線を取り払い生活している人も居ていいし、「〇〇人」という境界線を意識して生活している人も居ていい。

ただ、私が大事と思うのは、これからの世界の流れの中を見つつ、自分の考え方を見つめ直していくことであると思う。今は、「〇〇人」を完全に無くすことはできないけれど、いずれ必要とされる日が来るのかもしれない。

「ガイジン」・「ホモ」をテーマに書いている興味深い記事がこちらにあります:

Sunday, January 20, 2013

One Direction 第5回 アンコールクッキー社長 小島幸子



 One Direction 〜自分を信じて進む者たち〜
ー第5回ー 小島幸子さん


【経歴】
小島幸子(こじま さちこ)
1972年群馬県生まれ。1990年に横浜市立大学商学部に入学後、大学3年時に1年間休学して日本語教師の資格を取得するために必至に勉強する。1994年に日本語教育検定試験合格後、大学へ復学。1995年に卒業後、地元の日本語学校に就職する。1999年、カンボジアに初訪問と同時に旅行会社で働き始める。2004年にアンコールクッキーをオープンさせ、現在に至る。
(アンコールクッキーHPhttp://www.angkorcookies.com

■とにかく世界に羽ばたきたい!

齊藤:本日は、One Direction第5回目となります。どうぞ宜しくお願いします!

小島:宜しくお願いします。

齊藤:インタビューにはもう慣れていますよね(笑)?

小島:ええ(笑)。もう数えきれないくらいしているので(笑)。

齊藤:なるほど(笑)。では、早速なのですが、初めてカンボジアに来たのはいつなのでしょうか?

小島1999年ですね。その時は、旅行会社で働くために来ました。

齊藤:旅行会社ですか?

小島:はい。でも、もともとは日本語教師をやりたかったんですね(笑)。

齊藤:(笑)。随分違う職業ですが、なぜ日本語教師を目指していたのですか?

小島:大学3年生になる前でした。将来のことについて考えたんですよね。当時、私はバスケット部に所属していてOBOGから卒業後の進路について聞く機会があったんです。すると皆が大企業に入社して、結婚して・・・と同じような人生を辿っていることに気づいたんです。その時思いましたね、自分の幸せってなんだろうって。もちろん、その生き方を否定している訳ではないんですよ。それはそれでいい。でも残念ながら私は、皆と同じように生きて、幸せになれるのだろうか?と思ったんです。

学生時代、中国などのアジアによく旅行に行きました。その時にアジアのパワーを見せつけられましたね。これから成長する!っていう勢いが、自分にとってとても刺激的に感じました。ただ、それと同時に貧富の格差も目の当たりにしました。毎日食事をまともに食べられない人々、住まいが不十分な人々・・・そんな人たちを見て、自分がどれだけ恵まれた境遇にいるのかを実感しました。たまたま日本で生まれたありがたさを、非常に感じたのを覚えています。

そんなことを感じてからですね。世界で働きたいと思ったのは。それで考えたのが日本語教師なんです。日本語教師ならば世界中のどこでも必要とされる。だから、資格を取りたいと思って1年間休学しました。

齊藤:勉強は大変でしたか?

小島:大変でしたね。日本語教師というと簡単そうに聞こえますが、実はそうではなくて、学ばなければいけないことがいっぱいあるんです。言語学とか音声学とか・・・。4月から12月まではとにかく勉強して、1月の試験に向けて猛勉強しましたね。

齊藤:なるほど。試験には受かられたんですか?

小島:はい、もちろんです。3月に合格通知が来て、4月から大学に復学しました。

齊藤:卒業と同時に旅行会社に来られたのでしょうか?

小島:いえそういう訳ではないんです。もともとは青年海外協力隊に行きたかったんですよ。だから、在学中も卒業後も、参加するための試験に応募したんですが、どうしても受からなかったんです。卒業後は地元に帰って、アルバイトをしてフリーターになっていましたね(笑)。

齊藤:(笑)。ちなみに、どんなことをされていたんですか?

小島協力隊にいけないなら、こうなったら自分でお金貯めて海外に行くしかない!と思ったので、1日中バイトしていました。朝はドーナツ屋さん、昼は酒屋さん、夜は居酒屋、そして深夜はファミレスといった感じで(笑)。睡眠時間も2時間とかでしたね(笑)。

そんなことを4ヶ月くらいして、その後地元にある日本語学校に就職をしました。

齊藤:そこではどれくらい働かれたのですか?

小島4年間ですね。働き出して3年目くらいの時ですかね。大学の友人たちと会うと、みんな社会でバリバリ働いているわけですよ。もう34年目くらいですから。一方の自分は、海外で働きたい!って言って普通に就職しなかったのに、今ここで何やっているんだろうって思うようになって、あまり人に会いたくなくなった時期がありましたね・・・。

そんな時です。日本語教師の雑誌が当時あって、そこに海外で募集をしている会社が掲載されていて、カンボジアの山本日本語学校を発見したんです。それで応募したのが、カンボジアに来るきっかけでしたね。

齊藤:あれ?でも旅行会社に就職して来られたんですよね?その時は日本語学校だったんですね?

小島:それには色々と訳がありまして・・・(笑)。山本日本語学校を見つけて、すぐに応募をしました。その時はもう本気でしたから、どうしてもやらせて欲しいという旨の手紙を、履歴書とは別に書いて送ったんです。そしたら面接をして下さって、その際に既に先生として採用したい人が別にいることを告げられたんです。その方は、私よりも10歳以上も年が上で、かつ海外での日本語教師の経験もありました。一方の私は、20代で海外での生活経験もなかった。それでも、私の手紙を見て下さり、会ってみようと思って下さったようです。

そしたら、今年はその先生を採用しようと考えている。ただ、1年間うちの旅行会社で働かないか?と言われたんですよね。もし問題なくカンボジアで生活できれば、来年教師として採用するとも言って下さったんです。

私はとにかく海外に出たかったもんですから、何でもやります!と答えて、それで旅行会社になったというわけです。

齊藤:なるほど。やっと繋がりました!




■アンコールクッキーへの道のり

齊藤:ガイドの仕事はいかがでしたか?

小島:今では日本人が200名程シェムリアップにはいますが、当時は10名程でしたし、日本語を喋れるカンボジア人ガイドも今のようには多くありませんでした。なので、手探りの中を何とかやっていましたが、とても楽しかったですよ!

今思い返してみると、ガイドを1年していたからこそ、交友関係も広がったし、クメール語も喋れるようになったと思いますね。

それで1年経って、約束通り日本語教師として山本日本語学校に採用されました。

齊藤:日本語教師として採用されたのが2000年で、アンコールクッキーの開店準備を始めたのが2002年とHPには書いてありました。やはり、この2年がアンコールクッキー誕生にとって重要な期間だったのでしょうか?

小島:いや、このビジネスモデルを考えつくという点では、2年間の日本語教師期間よりもガイドの時の1年間で感じていたことの方が重要でしたね。

お客様を案内していると常に聞かれたのが、「お土産無いの?」という質問でした。当時のカンボジアは、お土産といえばクロマー(カンボジアのマフラー)か市場で売っているお菓子だったんです。特に後者は、蟻が入っている場合があるなど品質の面であまり良くなく、他人にプレゼントするという点では好ましくなかったんです。そこで、一つ一つ包装されて人にも配れるくらいの質を持ったお菓子のお土産が望まれているな〜と思っていました。

実際、当時はカンボジアから帰国するときに立ち寄るバンコクの空港でチョコレートを買って帰るというお客様がたくさんいましたから、そういうのを見ていて、もったいないな〜と感じていましたね。

齊藤:なるほど。

小島:でも、ガイドをやっているときは起業しようなんて思っていませんでした。ただ、もったいないなと思っていただけで、そもそもは日本語教師になるためにここへ来ていたわけですから、そっちを頑張ろうと思っていましたからね。

無事日本語教師になって、2年間働いた中で一番印象的だったのは、当時教えていた生徒から「自分たちカンボジア人は、お金持ちは何でもできるけれど、貧乏人はどんなに頑張ってもチャンスはない」ということを聞いた時でした。

でも、私は「そんなことない!」って言いたかったんですよね(笑)。「諦めないで頑張らなくちゃダメだ!」って、そう言いたかったんです。

実際、山本日本語学校に入学できる生徒は、ある地域の中で優秀な成績を修めた生徒なんです。つまり、自分たち自身が頑張ったからこそ、今ここで学べている。それは諦めなかったからじゃないかと。だから、これからも諦めずに頑張ろうよって言いたかったんですよね。

だから、その時ですよ。頑張って働いたら、ちゃんとした生活ができるような場所を作りたいって心から思ったのは。

齊藤2年間働いて仕事が一段落した際に、このまま続けるかやりたい事を始めるか迷いましたか?

小島:迷いましたね。30歳を目前にして、30代をどう生きるかと悩みました。もしこのまま日本語教師を続けるなら、もっと専門性を磨いていく必要があるから、大学院に行かないといけないなと思っていました。でも、研究したいわけではないので、ちょっと違うかなとは感じてはいましたね。

頭を整理するためにも一度日本に帰国したら、やっぱりカンボジアで仕事を創ることをやりたいと諦めきれない自分がいて・・・。それでやろう!と決心しましたね。

齊藤:クッキーにした理由は何かあったんですか?

小島:先程の話の続きになりますが、お菓子のお土産というコンセプトはあって、最初はチョコレートかなと思ったんですが、すぐに溶けちゃってダメだなと考えたので、クッキーにしようと(笑)。チョコレートの次は、クッキーだと思っていたので(笑)。

齊藤:試作は大変でしたか?

小島:そうですね。お菓子ってとても繊細なので、少し材料が違うだけで味が全く異なってしまうんです。なので、3ヶ月間毎日市場に行って、材料は何を使えば一番いいのかを研究しました。




■小さな工房からの始まり

齊藤:最初のお店の様子を教えてください。

小島:お店をオープンさせた当初は、2人のカンボジアスタッフと私という小さな会社でした。場所も今とは違うメインの道路から少し外れた場所で、1軒屋の中に自宅兼オフィス兼工場がありました。最初は、今のような店頭販売ではなく配達での販売や観光バスの車内での販売をさせていただいていました。

齊藤:事業が拡大するときの最大の転機はいつでしたか?

小島:色々ありますが、強いて言えば店舗の場所を、今のところに移した時ですかね。それが2005年の8月でした。こちらに移してからは、お客様がゆっくり商品を見られるようになりましたし、試食もできるようになりました。買い物ってやっぱり楽しみたいじゃないですか?特に女性はそうだと思うんですけど。だから、移して正解だなって思いますね。

齊藤:確かに今のお店の中に入ったことがありますが、とても楽しめる内装になっていますよね!

小島今でこそ色々と工夫して販売できていますが、当時はそんなことはなく、本当に基本的なことしか出来ていなかったなと思います。少しずつ少しずつ投資をして、今の形に作り上げてきたんです。

齊藤:なるほど。長年の努力の結晶が、今ここにある店舗ということなんですね。




■人との繋がりを大切に

齊藤:仕事をする際に気を付けていることは何かありますか?

小島誠意を持って人と接するということですかね。

齊藤:キーワードは、「人」ということでしょうか?

小島:そうだと思います。先程のバスの中での販売の機会をくれたのは、私がガイドをしていた時にお世話になった方々や当時お付き合いさせていただいていた日本人の方々でした。

また、この場所に移動して来られたのは、最初にアンコールクッキーをオープンさせた時に借りていた物件の大家さんとここの大家さんが家族で、私に貸すことを薦めてくれたからなんです。それがなければ、当時韓国からシェムリアップへの直行便が飛び始めた影響で増え続けていた韓国人が借りていたんだと思います。

これまでを振り返ってみると、本当に人に助けてもらって来ています。だからこそ、他人に失礼のあることはしたくないと思いますね。

齊藤:先ほど、「諦めないで頑張らなくちゃダメだ!」」ということを仰っていましたが、そういうことも気を付けているんですか?

小島:気を付けているというよりも性格ですね(笑)。本当に負けず嫌いなので(笑)、自分の中で決めたことに対して、絶対にできないとか駄目だったとかって言いたくないんですよ。だから例えば、朝早く来てみんなと一緒に働き始めるというのを今は心の中に決めているので、どんなに眠くてもそこはしっかり出勤するようにしています。

齊藤:楽しい時はどんな時ですか?

小島:仕事をしている時が楽しいですね。というか、自分の居場所があるということが楽しいです。どんなに辛いことがあっても、自分の居場所があって、自分がここで必要とされているんだと思うと、嬉しいし、楽しくなってきますね。

齊藤:少し話がズレるのですが、最近の日本では自分の居場所を現実の世界ではなくて、バーチャルな世界(インターネット)に求める傾向にあると感じるんですね。技術革新のおかげで、人と会わなくてもメールやチャットで何とかなってしまう世界ができている。確かに人と会うというのはエネルギーが必要ですし、疲れもする。でも、本当に大切なことって、そういう現実の世界で自分の居場所を見つけることなんじゃないかなと思うのですが、それについてどう思われますか?

小島:んー難しいですね・・・。でも、なんでそんなにカンボジアが人気かって考えると、結局人との関わりを求めているからなんじゃないかなって思うんですよね。アンコールワットもあると思うんですが、カンボジア人の人懐っこさや優しさ、そういうものを求めているからなのではないかと考えます。つまり、日本人も本能的には現実世界での繋がりの重要性を感じているのではないでしょうか。

ただ、時代を逆戻りするっていうのは難しいことなので、カンボジアもいずれの時か日本のようになる気がしますよね。

話は少し違いますが、仕事の中で技術革新と人という対立軸で悩むことが、よくありますね。例えば今後の展開を考えるときに、ハンドメイド(手作り)にこだわるのか、コストダウンのために機械化していくのかというのがありますね。お客様はもちろん安く買いたいわけで、実際そういうニーズがあるわけですよね。

日本のように多様な消費者がいればいいですが、カンボジアではあまり商品の質やバックグラウンドにはこだわりを持つ方は、旅行者の方でもまだ少ない。となれば、大きな工場を作るなり、中国やタイなどから輸入するなりした方が安く上がるわけです。

もちろん、小じんまりとしたお店でやっているならいいですが、今のような規模でスタッフがいて、彼らの生活を今後も維持していくことを考えると、自分のポリシーとどれくらい折り合いをつけてやってかなければいけないのかを常に考えますね。

齊藤:なるほど。




■生きることは楽しい

齊藤:さて、今後の事業展開はどのように考えていらっしゃるのでしょうか?

小島:お土産市場については、今後あまり伸びるとは思っていないんですね。今のままか少し増える程度だと考えています。したがって、商品を増やして売上を伸ばすという方向では考えていなくて、食品という分野に広げてビジネスを拡大しようと思っています。

観光客が少なくなっても、カンボジア人はここで生き続けるわけですよね。そして、人が食べるということを止めることはないですから、日本的な質的価値をのせた食品を販売できたらと考えています。

齊藤;今後のカンボジアもしくは、シェムリアップについてどうなると思いますか?

小島:んー、どうでしょうね・・・。何にも言えないですね(笑)。ただ、平和でいてほしいなとは思いますね。平和ボケするのは、進歩が止まるので良くないと思いますが(笑)。

あと、このまま発展して東京やバンコクみたいな都市になるのは寂しいな〜と思いますね。都市ってどこも同じじゃないですか?東京もバンコクもシンガポールも・・・。高層ビルがあって、地下鉄が通っていて、デパートがあって・・・。食べられる物も、買えるものもどこでも一緒っていうのは、面白みに欠けるなと感じますよね。

齊藤:それを踏まえて、シェムリアップはこうするべき!というのはありますか?

小島:ないですよ〜(笑)。外国人である私が、どうこう言える立場にないですから。変わっていく環境に対して、面白いと思えば居続けようと思いますし、つまらなければ違うところへ行こうと思いますね。

齊藤2013年の抱負はありますか?

小島:最近、マダムサチコ基金というのを始めたんです。

齊藤:知りませんでした!

小島:いやいや、公にしてないので知らなくて当然だと思います。そういうのを広めるのがあまり好きじゃないので・・・。その基金で奨学金を出して、大学に行きたいと考えているカンボジア人を応援したいって考えているんですよね。なので、それの運用をしっかりしていきたいというのがありますね。

あとは、会社のスタッフが段々結婚して子どもを持つようになったので、その子どもを預かる施設を作りたいなと思っています。1軒屋を借りて、そこに保母さんのような方を常駐してもらい、手遊びなどを学んでもらえればと思っていますね。そうすれば、スタッフの子どもも面白いように成長するのかなって想像してますね(笑)。

齊藤:まさにマダムですね(笑)。

小島:(笑)。最初は会社の福利厚生として始めたとしても、23年すればビジネスとして成立するんじゃないかなって考えているんですよね。カンボジアには、まだそういう場がないですから、そういう形で働く女性を支援できたら面白いなって思いますね。

齊藤:最後に若者に一言お願いします!

小島「生きることは面白いよ」ってことですかね。日本にいると悲観的なニュースや出来事が多いじゃないですか。メディアから「日本はもうダメだ」と、生まれた時から聞いてますよね?でも、ある意味自分の心持ち一つなんじゃないかなと思いますね。同じことでも観点を変えてみることで、前向きに捉えられると思うんです。

私もこれまで色々と辛い思いしました。青年海外協力隊の挫折から始まり、日本語教師ではなく旅行会社になったり・・・。でも、その時々の状況を受け入れて前向きに捉え、一生懸命やれば結果として将来振り返ったときに、ちゃんと今に繋がっているんですよね。

「生きることは楽しいこと」だから、嫌なことがあって落ち込むこともあるけど、嫌なことを違う観点から捉えて。前向きに生きようと言いたいです。

齊藤:本日は、ありがとうございました!!




—編集後記ー
2004年から約10年間、一人で会社を立ち上げて今までやって来ている姿は、非常にたくましく、かっこ良く見えた。

「自責」
小島さんの性格を一言で表すとすれば、この言葉が最も適切だと思う。インタビュー中こんな話をしてくれた。

数年前、長年務めるスタッフが金庫から大金を盗み、姿をくらましてしまった。ご本人が日本に出張中で、帰国する前日に発生した事件。犯人の自宅にも食事などで行ったことがあり、信頼を置いていただけに、事件が起きたときとてもショックだったという。

もし私が同じ境遇に置かれたとき、どんなふうに感じるだろうか。もちろん、彼が犯行に及んだことへのショックもあるが、きっと彼に対して憤慨し、必ず懲らしめてやる!と思うに違いない。しかしながら、小島さんは違った。

「彼が犯行に及ぶのを、止められるようなシステムを作っていなかった私が悪い。彼がこの事を背負って一生を生きると思うと可哀想だ。」

私は驚きを隠せなかった。2013年の抱負として、責任を取る人間になると宣言した私であったが、他人が引き起こした極めて予想ができない事柄までも自分に責任があると言えるとは思えなかったからだ。

「人は失敗をするからこそ成功をする」と言われるが、ここまで失敗を自責と捉えて強烈に反省し、今後に生かす人はこれまでにはいなかった。

2013年の始まりに、抱負の一つについて尊敬すべき人に出会えたことは、本当に幸せなことである。これから1年間、少しでも理想に近づけるよう、努力をしなければならない。