大学5年間の振り返り&将来のプラン
【大学5年間の振り返り】
浪人時代、心に決めた言葉があった。
「You are happy, I’m happy」
直訳は、「君が幸せだから、僕は幸せ」だ。浪人時代、予備校の講師から貰った大切な言葉である。
人は、自分で自分の存在価値を認めることはできない。他人に感謝されてこそ、自分が生きる意味を見つけることができる。だからこそ、他人を幸せにするために、まず自分が頑張らないといけない。特に助けるための知恵、知識を獲得しなければいけない。他人を幸せにできた時、自分が幸せを感じる瞬間が訪れる。そんな意味を持った言葉だ。
大学に入学して、すぐに私は動き始めた。
「社会貢献」
それが、他人の役に立つために一番近い道だと思った。だから、大学のボランティアセンターや講演会、セミナーに出席し続けた。当時、自分の将来について考えるとき、漠然と海外で働きたいと思っていた。今では海外で働く仕事の多様性を知っているけれど、当時は田舎から出てきた一人の少年。海外で働くといったら、国連と外務省以外に思いつかなかった。そんなこともあり、「社会貢献」と「国連」というキーワードで団体を探した。結果として出会ったのが、UNHCRユース(現J-FUNユース)であった。
様々な大学から学生が集まるこの学生団体は、非常に刺激的で、また学生団体の無限の可能性を団体のイベントを通じて感じることができた。しかし、12月くらいを境にして団体から少し距離を置くようになっていった。それは、バイト、勉強、サークルなど他にやることがあったからという理由はあったであろうが、それ以上に本気で団体にコミットできていない自分が嫌だったからなんだと思う。それと同時に、自分の時間の殆どを費やすべき何かを求めていたのも事実なのかもしれない。
■J-FUNユース
2008年6月20日。世界難民の日である。毎年この日に、UNHCRユースでは事務局の交代が行われる。世界難民の日の1ヶ月前くらいだっただろうか、団体のメーリングリストから1通のメールが送られてきた。事務局募集のメールだった。ユースは立ち上げから3年目の節目を迎えており、学生団体として今後の活動範囲の拡大においても大事な年であったと思う。
そのメールを見たとき、直感的に「やってみたい!」と思った。前述の通り、自分の時間の殆どを費やせる本気になれる場を求めていたのと、全国約300名いる団体をまとめることが自分にとっての挑戦になると思ったからだ。
他3名の事務局、そして前事務局には本当にお世話になったと思う。就任してすぐに団体の名前を変更しなければならなくなった時には、団体の存在目的から始まり、団体の名前のアイディア出しなどやることがたくさんあり、連日のミーティングが続いた。J−FUNの皆さんの前で、「J−FUNユース」という名前を使用させて欲しいと頼んだ際には、前事務局の協力が無かったらおそらく成し遂げられていなかっただろう。
3年目を迎えたユースは、表参道JACKというこれまで伝統的にやってきた企画が実行できなかったけれど、それ以外の企画で団体を盛り上げようと努力とした。立教大学での学園祭企画、タイへのスタディツアー、都内のカフェを使用した展示会など、「学生ならでは」という視点を大切にして企画を創り上げていった。
1年間を振り返ってみると、褒める点と反省する点で言えば反省する点が多い期間であると思う。主な反省点は2つある。1つ目は、後に記述するカーボンフリーコンサルティング株式会社でのインターンとでコミット量が半分割され、どちら付かずになってしまった点。そしてもう一つが、1つ目の結果として他の事務局に迷惑をかけてしまった点である。
2009年12月から始めたカーボンフリーコンサルティング株式会社でのインターンであったが、そこで業務を始めたことで、明らかにユースへかける時間が減った。インターンを始める前、自分の中では何とかなるだろうとタカをくくっていたのであるが、結局何とかならずどっち付かずになってしまった。原因はいくつか考えられた。一つは自分の力を過信しすぎ、キャパシティよりも多くのタスクを背負ってしまったこと。二つ目は、ユースにせよインターンにせよ、計画を立てずに活動をしていたこと。三つ目は、自分の限界を自分で勝手に決めて、それを越えようとしなかったこと。そんなところであろうか。
そんなこともあって、ユースのメンバー特に事務局には迷惑をかけた。任務を終了してから1年後くらいに、
「あの時は寂しかった」と言われたときは、反省の念をとても感じた。みんなのためにと考えていたことが、実は自分のためであり、それでみんなに迷惑をかけていたという何とも本末転倒なことが起きていたのである。
ただ、そんな1年間の中でも学んだこともあったのは確かだ。タイへのスタディツアーへ行ったときのことだ。現地のNGO、FEDと一緒に学生たちとディスカッションをしたり、手紙交換をしたりしたとき、学生たちのキラキラした顔がとても印象的だった。ビルマから難民としてタイに来ている彼らで(実際には難民認定されていない)、生活にも満足していないにも関わらず、日本ではなかなか見られない笑顔を見られたということは、私にとっては驚きであった。それをきっかけに、途上国の子どもたちに対して「何か」を行い、笑顔にするという行為に興味を持ったのは紛れもない事実であった。
■カーボンフリーコンサルティング株式会社
2年生になって社会運動論という授業を履修した。そこでは、NGO/NPOについて学ぶとともに、社会起業家(ソーシャルビジネス)についても学んだ。これまで社会貢献を仕事としてするには、NGO/NPOのみだと思っていたから、ビジネスを通じて社会問題を解決できるとしたソーシャルビジネスは非常に魅力的だった。
友人を通じてETICというNPOを知った私は、説明会に行きインターンへの興味を抱いた。ビジネスを通じて社会問題を解決しているソーシャルビジネスの会社で働くことができたならば、自分の将来を考える際の重要な要素になるだろうと思い、カーボンフリーコンサルティング株式会社を志願した。J−FUNユースの事務局という大きな仕事を背負いながらのインターンは、やっていけるのだろうかという心配をETICのメンターの方にされたものの、「大丈夫です!」と言った自分がそこにはいた。
業務の内容は、排出権取引をB to Bで行うこと。B to Cも行ってはいたが、当時の主な業務はB to Bがメインであった(今は不明)。当時はまだ新しかった排出権取引という仕組みを使い、カーボン・オフセット行い企業のCSRを応援するというものだ。排出権取引という制度に初めて向き合ってみて、複雑な部分も確かにあったが、その仕組みとそれがもたらす効果については非常に興味をそそられた。
インターンを通じて、排出権取引の制度を理解することができたのはもちろん、優秀な社員の方やインターン生に囲まれて、ビジネスの難しさや楽しさを学ぶことができた。唯一残念だったのは、メンターの方が懸念していた通り、ユースとの業務配分が上手く行かず、中途半端になってしまったという点だ。今思えば、もっとやれたはずだと思うものの、当時の自分からすると頑張っていた”つもり”だったのだろう。
それでもカーボンフリーコンサルティングでの経験がなければ、今の自分はないと断言できるくらい、この経験には感謝している。この経験無しには、アメリカでのインターン、就職活動、そしてかものはしプロジェクトでのインターンはあり得なかったといっても過言ではない。そういう意味で、カーボンフリーの皆さんには本当に心から感謝をしている。
■WMU(Western Michigan University)
高校生の時から憧れていた留学。兄・姉と期間に違いはあれど留学していたこともあり、私自身も自然と留学を意識するようになった。留学に必須の資格、TOEFLの点数獲得は容易ではなかった。読み書きを懇切丁寧に指導してくれる日本の英語教育は、確かにTOEFLでも力を発揮した。しかしながら、リスニングとスピーキングについては、事実日本人がもっとも苦手とするところであり、日本人が英語教育を中学・高校と最低6年やっても全くしゃべることができないのが現実だ。私は中学の時から英会話スクールに行っていたから、他人よりは喋ることができたものの、それでもテストとなると点数はあまり芳しくなかった。
数回の挑戦の結果、アメリカの大学への留学の切符を手に入れたのであった。今思うと、成熟しきっているアメリカよりもシンガポールなどの成長している国に行く方が楽しいとなるだろうが、当時の私には留学=アメリカという式が成立していたこともあり、それ以外を選ぶというのは考えられなかっただろう。
広大な土地を持つアメリカは、何もかもが大きかったのを覚えている。道路や建物、食事、人(笑)、日本という小さな国からは想像できない世界がそこにはあったのである。渡米して最初に感じたのは、自分の英語力の無さであった。まず聞けないのだ。何を言っているか速すぎて分からないし、口語表現は習ったことすら無い。だから、授業にしてもネイティブとの会話にしても非常に苦労したのを覚えている。レコーダーに授業の音源を記録して部屋で再度聞きながら勉強し、困ったときはルームメイトのインド人に助けてもらった経験は、思い返すと懐かしいし、インド人の友人はよく助けてくれたなぁと思う。
アメリカの大学が環境配慮に努めていると知った時は、正直驚いた。アメリカといえば、京都議定書を批准せず、二酸化炭素を大量に輩出している国であるというイメージがあったから、大学だって同じだろうと想定していたのだ。しかし、現状は違っていた。国中の大学が二酸化炭素を如何に減らすかに腐心し、環境配慮が優れた順にランキングが付けられていた。
実際留学先の大学では、学生から“Environmental Fee”と称して毎ターム4ドル(だったと思う)を徴収し、ファンドレイズを行い、それを大学が持続可能なものになるために使用していた。しかもその“Fee”を徴収すること自体は、学生たちの間で選挙を行い決めたという。
そんな環境を気にしている大学で環境学科の授業を履修し、後にインターンでお世話になる教授や環境意識の高い学生と出会えたことは、私にとって有意義であった。
留学を通じて感じた一番の反省点といえば、自分の殻にこもり過ぎていたことだと思う。当時の私は(今もそうかもしれないが(笑))、尖っている人をバカにするような態度を取っていたと思う。今の考えの根底は、「一生懸命に生きている人は、みな平等であり、尊敬されるべき」というものであるが、当時の自分はそうではなかった。やがて自分の殻を破ろうとせず、アメリカらしい遊びや習慣に参加することを拒んでいたのだと思う。のちのち気がついて方向修正を図ったものの、それでも失われた経験はあったわけで、非常に勿体無いことをしたと思う。
ただ、留学を通じて一生付きあう友人を得られたことは、私にとって非常に大きなことであった。みんなで集まってピザを食べたり、誕生日を裸になって祝ったりした経験は今でも忘れないし、そんなことを思い出す度に良い友人と出会えたなとしみじみ思う。2年経った今でも付き合いがあるし、社会に出たことでバラバラになっているけれど、要所要所ではこれからも集まってワイワイやるのだと思う。この場を借りて、今後とも宜しくと伝えたい。
■ Office for Sustainability
前述の通り、私は留学中環境学科の授業を履修していた。その中でもDr. Glasserの授業は自ら直談判して入れてもらった授業だった。授業の中身は、「大学を持続可能なものにするために何ができるのか」を考える実践講義であった。生徒たちの中で興味のあるテーマを選び、それを基に調査を行い、最終的に授業で発表する。それがやるべき事であった。
私が選んだテーマは、「カーボン・オフセット」。留学前にインターン時代に学んだ知識を活かす場所ができたのだった。
なぜ私がインターンをすることになったのか。それを少し述べたいと思う。留学が終わる2月頃だったか、私は今後について悩んでいた。大学にいて、様々な国の人と出会った。韓国から始まり、マレーシア、中国、サウジアラビア、インド、ドイツ、フランスなど世界各国から留学に来ていた。期間も人それぞれだったが、多くはWMUへの編入生で、2年は少なくともいた。
話は少し逸れるが、留学生全体で見たとき、日本人が数十名に対し、中国人やサウジアラビア人は非常に多かったのを覚えている。彼らはこれから国の将来を担う原石であり、希望な訳だ。それは日本人だって当てはまる。でも、その数が圧倒的に少ない。数ではなく質だという人もいるだろう。しかし、ハーバード大やイエール大などの名門私立大学でさえ、日本人の人数なんぞたかが知れている。いかに日本人が海外に対して興味がなく、日本の将来が暗いかを実感した期間でもあった。
そんなこんなで8ヶ月で帰国していいのか?という疑問が私の中に起こり、「否」という答えが出た。旅かインターンかと迷った末に、腰を据えて何かに挑戦し、日本のインターンの際に成し遂げられなかった、「何かを本気でやりきる」ということに挑戦しようと決めたのだった。
インターンで取り組んだことは、大学にベストな排出権(クレジット)を探し出し、提案書を書き上げることであった。他のインターン生が共に協力してやるなかで、カーボン・オフセットについて何かしらの見識があったのは私だけだったこともあり、自分一人でも挑戦となった。
正解も不正解もない大海原の中をさまよい続けた4ヶ月間は、非常に充実していた。もちろん、他人と共同プロジェクトでやれたならば、ディスカッションが生まれてもっと良かったのにと思うこともあるが、それでも何も無いキャンバスに絵を描く様で、私は気持ちが良かった。
インターネット、書籍、フィールドというできる限りの事を全て行い、調査を進めて行った。途中、大学の二酸化炭素を削減するためのプロジェクトチームにも加えてもらえた。二酸化炭素を削減するために関係のある学部の長教授が出席する会議に出席させてもらえたことは、単語が分からず議論について行けなかった部分はあるにせよ、勉強になったことは確かだ。
4ヶ月の格闘の後、書き上げた提案書は、「今後カーボン・オフセットを考える際の重要な資料になる」と言ってもらえた。残念ながら、その資料が使用されたかどうかを知る由はない。ただ、4ヶ月間必至に取り組んで完成させた報告書の存在は、自分に異国の地でも何かを成し遂げられるという自信を与えてくれたのであった。
お世話になった、Dr.Glasserとの写真 |
■就職活動
アメリカから帰国後、9月から始めたのは就職活動であった。外資系企業は9月から始まると聞いていたことと、アメリカでのインターンを満足良く形で終えられた流れに乗って就職活動も終わらせようと思い、早速取りかかった。
外資系企業の説明会に出席する学生は、みな何か学生時代に面白い経験をしてきており、会う度にその話しを聞いたし、聞くことが常に楽しみだった。大手の日系企業の採用活動が解禁になるのは12月以降であったものの、ベンチャー企業などは既に採用活動を始めており、外資の就活、エントリーシートの執筆、自己分析、ウェブテスト及び筆記テストの勉強と合わせれば、暇ができることは無かったのを覚えている。
OB訪問を初めてしたのは、確か10月下旬だったと思う。前述の通り、大手の採用活動解禁日が12月にも関わらず、頑張っているからとお会いしてくださった総合商社のOBの方には、本当に感謝をしている。その方をきっかけとして、多くのOB・OGにお会いさせてもらったし、それぞれの方が持つ夢・やりがいを聞くことができたのは、非常に有益であった。ピーク時には、毎日OB・OG訪問をしていたが、それは嫌々ではなく、とにかく楽しかったからだった。
私の就職活動を語る上で、ある大手電機メーカーの社員の方を抜きにすることはできない。その方とは、大手電機メーカーの大きな説明会でお会いし、当日ずっと話し込んでしまった。後日、海外部署で働いている方を紹介してくれると言ってくれ、大阪にあるグローバル部門との電話社員訪問をさせてくれたし、ある社員交流イベントに抽選のところをこっそり入れてくれた。リクルーター制度というのを知ったのは、随分経ってからだったので、その時は本当に優しい方だと思ったし(今でももちろん優しい)、イキイキとして働く社員の方との交流を純粋に楽しんでいた。そこには、内定をもらうために良い事を言おうという自分はなく、疑問に思ったことを素直に投げかけていた自分がいた。
今、私が人生で成し遂げたいことで掲げている、「生まれた境遇で生ずる機会の格差をなくす」というスローガンは、その社員の方の紹介で知り合ったリクルーターの方に言われた言葉そのままである。ある日カフェでエントリーシートの確認をしてもらっているとき、自分のやりたい事が明確な言葉で言い表せなかった私に、ふと「齊藤くんがやりたいことって、機会の格差をなくすことなんじゃないの?」と言ってくれたのは、まさにその方だった。
その方に会えなかったならば、今の自分の明確なスローガンは存在し得ないし、ここまで胸を張って生きていないと思うと、本当に出会えたことに感謝である。結果的に私は、その会社の内定を蹴ることになってしまった訳であるが、今でもその会社で知り合った社員の方との交流はある(残念ながら、スローガンを示してくれたリクルーターの方との交流はない)。
私が就職活動を通して感じたことは、2つある。
①心の奥底から話すこと
②人をしっかり見ること
この2つだ。
①は、就職活動中自分のやりたい事、感じてきたことなど心に抱くことを正直に伝えるようにしていた。それは、嘘を付いたって仕方がなかったし、例えそんな嘘を付いたとしてもいずれバレてしまうことが明白だからだ。わざわざ時間を自分の為に割いてくれている社会人の方にできるせめてものお礼は、心に奥底から向き合うことだと信じていたのである。幸い、その姿勢に対して反発されるということは一度もたりとも無かった。むしろ「面白い」と言ってくれ、時には一緒に悩んでくれ、的確なアドバイスをくれた。就職活動を通じて、何名もの社会人の方とプライベートの付き合いが始まったのは事実である。これは、当時心の奥底から話しをし、お互いに意見交換をできたからであると思っている。もし、自分が表面的な言葉で飾り、仮面をかぶって接していたならば今の繋がりは生まれていなかっただろう。
②自分のスローガンを見つけてくれた方は、本当に人をしっかり見ていると思った。その人が持っている潜在能力やその人が気付いていないけれど持っている思い、そういうものを会話や経験、仕草の中から発見して気づかせてくれる能力は、素晴らしいと思った。そしてこの能力は、いずれ自分も必要になるであろうと感じている。どんな立場になっても、仲間の育成という仕事が消えることはないだろう。そんな時大切な事は、相手をしっかり見て、その人の潜在能力(得手不得手とも言える)や思い、やりたい事を読み取り、気づかせてあげることであろう。これから仕事を始めるにあたって、人をしっかり見ていくことを大事にしていきたいと思う。
■かものはしプロジェクト
「生まれた境遇で生ずる機会の格差を無くす」ことを人生の目標とした私にとって、社会に出る前に実際の現場でその経験をしてみたいと思うようになった。就職活動を無事に終え、卒業単位を取り終わった私にとって、大学生活の残りの期間を如何に過ごすか考えることは、非常に大事なことであった。旅、バイト、勉強、インターン、留学・・・その可能性は枚挙に暇がなかった。就職先として選んだユニクロの最終面接で言われた言葉があった。
「齊藤くんは、勉強はもういいから、もっと仲間と共に実践経験をした方がいいよ。」
(一言一句合っているとは思えない)
そんなことで、実践経験の場=インターンだと思った私は、早速以前お世話になったETICへと急いだ。自分がやりたい事が明確だったから、インターン先の団体・企業はすぐに絞ることができた(確か4つくらいあったと思う)。日本で活動する団体・企業が3つ、カンボジアで活動する団体が1つあった。
最終的にカンボジアでのインターンを決断するわけであるが、その理由は2つある。1つは、日本でインターンするならば、東京という4年間いた土地ではなく、沖縄や北海道といった遠い地域でやりたいと思っていたものの、3つの団体はどれも東京勤務であったという点。2つ目は、日本という平和ボケした国にいることに飽き飽きしており、どこか異国の地でやってみたいと思っていたことである。
そんな理由もあって、カンボジアでのインターン、すなわちかものはしプロジェクトでのインターンを志願した。エントリーシートと面接は順調に進み、無事カンボジアへの切符を手に入れた。カンボジアに行く2ヶ月前から、日本オフィスでのインターンを開始した。主な業務は、ECサイトを通じての製品販売だ。かものはしプロジェクトの主な製品販売先はカンボジアであるが、日本での販売もある程度は力を入れていた。
日本オフィスでのインターンは、日本でのスタッフと知り合えたこと、製品について知ることができたこと、日本の製品販売の状況を知ることができたことなど多くの点で良かった。また、EC販売という上司が「ある意味で」いない部署は、自由であるが重要な事項を任せてもらったと思っている。
9月1日、カンボジアに降り立った。空港に降り立った時の空気がモワッとした感じは今でも覚えているし、あの時の青木さん、亀山さん、瓜くんそれぞれの印象は、今でも忘れていない(笑)。途上国といえば、タイの農村にしか行ったことなかった私にとって、カンボジアという国で5ヶ月間過ごしながら仕事をすることに緊張と不安があったのは確かであった。
桶に水を貯めてお風呂に入るスタイルや頻繁に発生する断水と停電。ハエや蟻さんがいるなかでの食事やゴミが散らかる道路など日本やアメリカでは考えられないことばかりであった。私にとって幸運だったのは、到着してすぐに工場の女性たちとのパーティーに参加できたことだと思う(かものはしプロジェクトのカンボジアオフィスでは、1クオーター毎に女性たちとのパーティーを実施している)。そこで多少なりとも女性たちとの知り合いになれたことやカンボジアの文化に触れられたからだ。実際、そこでの経験があったからこそ次の週からの業務にスムーズに入ることができた。
業務内容は、製造部門(Production)に所属し、生産性の向上に努めて欲しいと言われた。生産性の向上などやったことも無い私に何ができるのだろうと思ったが、それが当初言われたミッションであった。後々聞くと、マネージャーが、現地代表の青木さんから自分が生産部門に精通していると伝えられていたことや、日本人は「ムダ・カイゼン」について誰でも知っていると思っていたことを知り、マネージャーと一緒に笑った記憶がある。
インターンを始めて最初の1ヶ月半くらいは、自分が5ヶ月後何を目指して業務をしていけばいいのか、悩む日々が続いた。もちろん言われた仕事をやり遂げるということは大事で、実際それもしていた訳であるが、それがどのような効果をもたらすのか、どのように現場で利用されるのかといった具体的な形を捉えられず、やる気が無くなった場面が何度かあった。
変わり始めたのは、10月下旬からだったと思う。Q2(クオーター2)の振り返り会がオフィス全体で行われ、その時に自分の役割が明確になっていったのだ。それからというものは、仕事が楽しくなり、土曜日のオフィスが休みの時でさえも工場に仕事に行くようになった。もちろん仕事をするという大義名分があったが、実際はその40%くらいは女性たちと一緒にいることが楽しかったのだと思う。
原価計算、各工程の調査、チームリーダートレーニング、ムダ・カイゼン、工場訪問者の対応など様々な業務をやらせてもらい、自分の頭で考えて行動するという能力が伸びたとともに仲間を信頼することの重要性を感じた。
カンボジア人のスタッフとの仕事は、残念ながら日本人との仕事同様にはいかない。考え方、価値観、スキルなどすべてが異なるからだ。かものはしプロジェクトは、ある程度スキルの高いスタッフを擁しているとはいえ十分ではない。しかし、そんな違いがあれど大事なことがあった。それが「信頼すること」であった。
製品製造過程のタクトタイムの計測をしたときだ。カンボジア人スタッフ2人とチームを組み、取り組むことになった。カンボジア人のうちAは、これまで良い評判を聞いたことがなかった。以前、Aと一緒に働いていた日本人スタッフは彼のことをこう言った。
「彼の言っていることは、殆ど嘘だから」
チームを組んだ時、その言葉が頭をよぎった。「大丈夫かな?」と正直思った。ただ、チームを組む前に、ある本を読んだ。その本には、リーダーシップについて書いてあった。そこに書いてあった言葉に、私は感動をした。
「人を変えたければ、相手を感動させ、一緒に感動する」
その本を読んで、近い将来ユニクロでやってみたいと思ったが、どうせやるなら今やってみようと思った。もし、すべてが違うこの国でできたならば、きっと日本でもできるはずだと考えたからだった。相手を感動させ、一緒に感度するには、相手を信頼することが大事だと考えて、とにかく信頼すると誓った。
もちろん信頼することは任せっきりにすることではない。一緒にタクトタイムの測定方法を検討し、スケジュールを一緒に決め、一緒に実行に移した。そして、ある程度慣れてきたらすべてを任せるようにしたのだ。
結果どうなったのか。Aは彼の同僚と一緒に取り組み、やり方も一緒に決めた通りにやってくれた。そして、期限内に仕事を終えて、結果を提出してくれたのである!
この仕事は、客観的に見ればちっぽけな仕事であり、かものはしプロジェクトではまだまだやらなければいけないことがたくさんある。しかし、私は自信を持ってこれだけは言える。Aを含めたカンボジア人なしには、絶対に期限内に仕事を終えられることはなかった。そして、その成功要因の一つは、私が彼らを信頼し、彼らが私を信頼してくれたからである。
「信頼すること」
それは簡単なことではないと思う。時には裏切られる時もあるだろう。しかし、私が思うに、これから日本だけでなくグローバルで働く上で重要な要素の一つに、「信頼すること」があると思う。上司だろうが、同僚だろうが、部下だろうが。日本人だろうが、中国人だろうが、アフリカ人だろうが。仏教徒だろうが、キリスト教徒だろうが、イスラム教徒だろうが。男だろうが、女だろうが。そんなことは関係ない。
「信頼すること」
それがカンボジアでのインターンで、一番の学びであった。
カンボジアでは、本当に多くの日本人にお会いした。会う人会う人が刺激的で、常に何かを学んでいたと思う。ただ、カンボジアでお会いしたすべての方に当てはまる項目4つあった。それは、「責任感」・「当事者意識」・「歴史」・「感謝の気持ち」である。詳細は、ココに任せるが、これらはおそらく一人の立派な大人になるに当たって、万国共通、少なくとも日本には必要なことであると思った。
かものはしプロジェクトの工場の女性たちと |
■今後の展望
カンボジアを発った後、タイとシンガポールに立ち寄った。理由はひとつ。ユニクロの店舗に立ち寄り、現地で働く日本人の方にお話をするためであった。アポイントも無しに尋ねた店舗のスタッフの方々は、みな優しく接してくれ、喜んで話しをしてくれた。
印象的な話があった。ある店長と食事をしながら話をしていた時だった。私が、店長として一番の喜びは何ですか?と尋ねたところ、その方はこう答えた。
「色々あるけど、やっぱりスタッフが育っていくことかな。私の直近のやるべき事は、タイ人のスタッフを一人前の店長に育てることなんだ。ユニクロは、確かに服を売っている企業だけれど、同時に経営者を育てる企業でもあるからね。」
私は、はっとさせられた。「経営者を育てる」。それがこの会社でやれることなんだと思った。カンボジアに5ヶ月間いて、痛烈に感じたのが人材育成不足だ。教育の機会が平等でないカンボジアで、良い人材が育ちにくい環境になっている。そこに私自身として協力できることがあると思った。
カンボジアという土地で、ユニクロの店舗を開設し、そこでスタッフを育成していく。日本ですらユニクロでの労働経験は、就職活動の時に有利になり、日本企業がお墨付きで人材育成能力の高さを買ってくれている。もし、それがカンボジアであれば・・・と考えると、夢が広がるのではないだろうか。
私がこの5年間で仕事を通じてやりたい事は2つある。1つは、3年後にカンボジアでの店舗立ち上げに携わり、カンボジアという国での仕事を始めること。そして2つ目は、5年後に初のカンボジア人店長を育て上げることである(もちろん会社の動向によって、目標にズレが生じることは理解している)。
そのために、今、何をしなければならないのか。それは明確だ。まずは、自分が店長になり、実際に日本人のスタッフを育て上げることである。ここ5年間の仕事とプライベートのプランの詳細は下の図を参照してもらえればと思うが、とにかくこの2年間は必死こいて何がなんでも働くと決めている。
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