坐禅という手段を用いて、自分と向き合う
9月14日〜17日まで、3泊4日という短い時間であったものの、京都の亀岡市にある宝泉寺禅センターへ行って来た。
禅をしてみたいと思ったのは、8月のこと。雑然とした俗世間を離れて、自分と向き合う時間を持ちたいと思ったのがきっかけだった。
日程の関係上9月にずれ込んだものの、やはり禅への気持ちに変わりはなかった。
自分と向き合い、そこから自分の人生の方向性を再定義する
それこそが今回の目的であった。
京都から約20分のところにある馬堀駅から歩いて15分。保津峡の川と山を横目にして、トンネルを抜けると亀岡市の田園風景が広がる。
電車から眺める保津峡 |
保津峡を囲む山々を見て「こんな山奥で修業するのか!」と不安の念を抱かされながら進む電車の先に見えた亀岡の田園風景は、安堵の念を感じさせた。
常に東京とシンガポールで働く私にとっては、田園風景を見るだけでも心が休まる。人工物で囲まれた都会の空間は、心に安らぎを与えてくれず常に緊張感をもたらすからだ。
亀岡市の風景は心を和ませてくれる |
禅センターに着き、同日に入山するメンバーと対面する。そもそも休みの日に、わざわざ京都の田舎まで禅の修業に行こうと思う人は、相当変な人だろうなと感じていた私にとって、同日に入山したメンバーも、そこで出会った人たちも、予想とは裏腹に至って普通の人だった。
とはいえ、一人ひとりの事情は違っていて、下界で何か悪いことをやらかした人や精神的に追い詰められた人、様々な人がいたことは間違いない。しかしながら、下界ではビジネスとして人を見てしまう人たちもここでは平等な立場。
「お互い利害関係がないからな。なんでも打ち明けて話せるよ」
とある修業者が言っていたが、まさにその通りだった。
なんの損得を考えることなく、心の内を打ち明けられる。そんな空間がそこにはあった。普段は緊張と疲労で溢れている顔や体は、一気にここでほぐされることになる。
昼食後に自由時間はあるものの、朝から晩まで修業に励む。規則正しい生活。規律のある食事作法。そんな生活は修学旅行以来だ。
ちなみに1日のスケジュールはこんな感じ。
05時20分 起床社会人になると自分で全てを組み立てることになる。起床時間から朝食、通勤するために家を出る時間…それはそれで大切だ。自分の頭を使うことになるのだから。
05時40分 太極拳
06時00分 坐禅
07時00分 お経
07時25分 掃除
08時00分 朝食
09時00分 作務
12時00分 昼食
12時30分 自由時間
18時00分 夕食
19時00分 坐禅
21時00分 お風呂
22時00分 就寝
規則が決まっていればただ従うだけでいい。頭を使わなくて済む。もっと言えば、他のことに頭を使うことを集中できるということだ。
おかげ様で修行期間随分と考え事をした。
坐禅の時間、無心にならなければいけないにも関わらず、色々なことが頭を巡った。但し、時々グチャグチャする頭を「スッと」、ちょうどホワイトボードに書かれた文字を消すように白紙にしてくれるのが、「無心になる」 ということだった。
しかしそれでいいのだということも悟った。坐禅の時間は、常に無心になる必要はない。
さて、3泊4日の修行を終えてわかったことがある。それは、禅修業は自分と向き合う手段の一つであるということだ。修業に行く前、私は浅はかながらも、禅をすれば何かが降ってくると信じきっていた。禅がなにかを俺にくれると。
しかしそんなことは全くない。結局、考えて結論を出すのも自分だし、行動するのも自分だ。坐禅を組んで無心になれば、何が降ってくることもない。それらはあくまで手段の一つなのだ。
今回の旅で私は大切なことを学んだし、自分と向き合うこともできた。
これはなぜかと言われれば、もちろん坐禅を組んで無心になったからというのもあるだろう。
しかしそれだけではないことは、強調しておきたい。禅修行のなかでの、修行者同士の会話、読書、法話、掃除、食事、睡眠。同日に入山したメンバーと行ったプチ旅行。
それらひとつひとつが、相重なって今回の答えに辿り着いたのだと心から言える。
坐禅は手段の一つでしかない。禅修業は手段の一つでしかない。これからの人生、きっとまた何かに悩むことがあるだろう。しかしその時は、様々な手段を試せばいい。坐禅も読書も旅も、何もかも。
そしてまた答えを見つけて、前に進んでいく。きっと人生は、そういう繰り返しなのだろう。
今回、施設でお世話になった方々には本当にお礼を言いたい。これからまたどこかで会えることを楽しみにしたい。
みなさんも一度試してみてはどうだろうか。きっと自分を見つめ直すいいきっかけになると思う。
プチ旅行ありがとうございました!! |